「第22回文学フリマ東京」 取材のあとさき

5月1日、東京流通センターで行われた第22回文学フリマ東京に参加してきた。

文フリは、ぼんやりと行きたいと思いながら行けていなくて。でも今回念願かなって行けました。しかもライターとして行けたわけで。

 

かなり、わくわくはしていましたが、緊張もしていました。普通ライターというとスーツをびしっとまとって、ICレコーダを胸の隙間に差し込んで、イヤリングは爆破装置がついているわけじゃないですか(80年代のアニメ)。

そして真っ赤なルージュに白いブラウスでなければならないのだ…

 

しかし私は高円寺や阿佐ヶ谷を歩くのと同じ格好で行きました。

心持としては。

一般参加者というくらいなスタンスで。

でも取材証を受付でいただいて首からさげたときから、弱冠緊張しながらまわらせていただきました。

 

自分のスタンスは専業のライターというのではなくて、週末だけライターをする、そしてもし良いネタが提供できればニュースサイトに掲載される、という兼業ライター。

副業ライターともいえるか。

 

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で、そんな素人まるだしな人間がいろんな方にお話を伺うのはどうかな、と不安もありながら伺ったのですが。

みなさん、案外と色色なことをお話してくださった。

本当は全部まわりたかったのだけれど、それは、無理だった。

700以上のブースがあるのだ。

 

ただ、今回まわりきれなかったところも、次回は取材させていただきたい。

 

記事を書いたあと、とてもみなさん喜んでくださった。

自分の認識が謝っていたりとご迷惑をおかけしたりもしてしまったのだが、訂正させていただきながらも、だんだんと良い記事になった。

良い記事になったというのは、自分のおかげでなくて、どちらかというと、みなさんが読んでくださったことで、喜んでくれたので、ああこれ、いい記事だったんだ、やってよかったんだ、という実感がわいてきたから言えることだ。

良い記事になったのは、私が書いたからではなくて、みなさんが喜んでくださったからなのだ。本当に。

 

記事には色色の種類があって、あるイベントが行われる告知や、実際にそのイベントが行われたことのレポートや、そのイベント関連者のインタビューや、さまざまなタイプの記事がある。イベントの記事はどちらかというと会場の雰囲気を伝える実況、のようなものが望ましいのかもしれない。

けれども、会場の雰囲気といったって、会場はもとはなにもない空間、なのだ。

そこに人が集まる理由、というのは、机の上のものが主役だから、なのだ。

 誰も自分が目立ちたいわけではない。

交流だったり、頒布だったり、購入だったり、が目的なわけだ。

視覚的に素晴らしいものやディスプレイを置いている出店者の方も大勢いらっしゃるけれど、そうした方々すらも、もちろん、自分が目立ちたいのではない。

作品ありき、なのだ。

「文学」を全面に出している時点で、「実況」自体が、もう、不可能なイベントであるのだ。そういうのは、無理なのだ。

 

じゃあ、何を記録すればいいか、というと。

やはり、画像でなくて、文字で、聞いたお話を伝えたい、ということになる。

それでも自分がお話を伺っていいかなあと及び腰になる門外漢なジャンルもあるし、逆にこういう話は自分も得意、というジャンルもある。

だからと言って、自分の好きな百合作家さんばかりに話を伺うのも、正しくない。

 だから、なるべく、フラットに、いろんなところをめぐるようにした。

必然的に、文学フリマさんのプッシュする作家さんにめぐりあえたり、実はもう新聞にとりあげられていた! というような創作者の方々にめぐりあえたり、ということもあって、少し安堵した。

けれどやはり、嬉しかったのは。

一隅を照らせたのかな? という反応をいただけたことだった。

 

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今回特に自分が面白いと思ったのは、

人工言語」「ドストエフスキーBL」というものを発信している創作者さんだったのだが、あまり、知られている存在ではない感じもあって(でも文学フリマではそれほど異彩を放っていたわけでもなく、本当にいろんな形態の出店者がいたのだ)、TOPにもってくるのはどうかな? という気持ちも1ミリくらいはあった。

 

ただ。

さすがに、記事を書いて二年くらいにはなるので。

結局、自分がつまんないと思う記事は広まらないし、自分がつまらないと思う記事が拡散されたってつまらないんだよ! という、気持ちはあって。

記事をやるのは、お金のためではなくて、自分がいつまでも小説家になれないことへの反動ではじめたことなので、つまらないことはなるべく書かないという心持があったので。(それは普段の生活の生業で行っているので、ライティングでまで厭わしいことはしたくない)

自分にとって面白いと感じる方々をちょっとだけ上にもってきた。記事タイトルに冠したのだ。

 

単に数字だけみれば、訴求力のある記事、ということにはならなかった。

というよりも、どんな記事でも、たいがいはそうで、ものすごく爆発的に拡散されるということはしょっちゅうは起きない。

まして文学フリマは珍しいイベントではないし、視点も爆発的に革命的なわけではなくて、良い記事にしようという狙いが外れなかった、という仕上がりのものだった。

ただ。

今回の記事で、取材された側のみなさんがとても喜んでくれた、というのが、嬉しかった。

そして。

活用してほしい。

 

実際のところ、そんなに、ニュースサイトそのものに宣伝の力はない。

これは本当の話で、やっぱり、大切なのは内容だ。

今回の記事で、ものすごく爆発的に拡散された、ということは起きてない。

それは私の力量もあるのだが。

性質として、うけを狙って書いた記事というわけではなかった。

20回を越える開催の文学フリマに無理に新規性をもたせたり、そこをはやしたてて盛り上げたいわけでもなかった。

 

ただ。

このニュースサイトに掲載されたんだよ! ということを活用して、今後の活動を広めたり、長く続けたりするための、踏み台というか。

糧にしていただければいい。

 

記録する、というのはそういうことだ。

そのために取材した、といってもいい。

この先の宣伝や布教活動に、じゃんじゃん活用していただきたい。

 

そして、今回の記事を書いて、みなさんの反応をみて初めて知ったのだが。

実はみなさんはものすごいことをしているのに。

みなさん、ものすごいのに。

それに気付いていない! ということだった。

イベントというハレの舞台に対して気取りがなさすぎて。

最初に出した本はすごくシンプルな表装だったり、今後の企画がなかったり、という状態であったことを知った。

もう、気取りがないのだ。

なんだかそれもまたすごいのだけれども。

研究者というか、創作者というか、キュレーターってそうなんだ、と実感した。

真摯に打ち込んでいる人は、内容が凄まじくても、外面を気にしなさ過ぎて、あるいは自信がなくて無頓着だったりする。

それを、すごいんだよ! あんたら、すごいよ! と言いたいがために記事にさせていただいた、という側面も、あった。それが目的のひとつでもあったのだ。

 

当然ながら、もうすでにプロとして活躍されている方々からもお話を伺っていて。

 あるリトルプレスの出店者の方からもお話を伺っていたのだ。

その人そのものではなく、ご一緒にいらした年配の方が言っていたのだ。

その出店者の方は最初はご自身の作品を非常に安価で提供していたのだという。

それじゃあだめだ。赤字だしちゃいけない、ということで適正な値段をつけるよう忠告されたのだ、というお話を伺ったのを思い出した。

そうだったんですか、と、私は過去の己を省みた。

自分も二次創作の同人誌をやっていたときは、売れないからといってどんどん安売りしちゃっていた。けれど、周囲に相談するくらいはしてもよかったのかもしれない。

自分はさておき。

 

そうなのだ。

みんな、自分の価値を知らない。

他人のことはわかるのに。

記事掲載されたことで、みなさんが、改めて文学フリマのときに何をしたらいいのか、という視点をもちはじめるのを目の当たりにして、おお…こんな門外漢のコメントを取り入れてくださるとはなんて柔軟な…と、感動して感心したり。

実は記事に取り上げられる前にはこの本はこんな姿だったんですよ、という実像を教えていただいて、まじかっ! と、驚いたり笑ったり。

 記事を書いた後も、色色な形でやりとりをさせていただいたりしている。

もう、記者冥利に尽きる。

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自分も創作者だからわかる。

自分の価値は自分ではわからない。

 だから、人が必要なんだ。鏡として。

そして、自分は上等な鏡ではないけれど、小さな手鏡くらいになれればいいな、と改めて感じた。

イベントはもちろんお祭りではあるのだけれども、大なり小なりお金が関わってくるのは実際なのだ。

そこで赤字を出し続けていると、経験したから断言するが、続かない。

それは、非常に、もったいない。

公的機関や出版社がお金出してもおかしくないレベルのことをしてる方もいるのだが。

今の時代、なかなかそれは難しい。

好きだからやっていく、というのはいいことだ。

けれど、それだけでなく、やはり、人と協力し合ったり、何かを利用したり、お金をかけられないならコストを抑えたり、ということは大切だ。

もちろん理想を打ち立てるのも大事だけれども、現実と折り合いをつけながらコストを抑えるか、理想を掲げて自信をもって質の高いものを頑張って提供していくかは自分次第だ。

そして。

その選択肢のモデルケースが文学フリマそのものにたくさん、たくさん実在しているのだ。

これはすごいことなのだ。

今回、取材でいろんな方からお話を伺ったが。

福岡文学フリマを踏まえて九州方面から参加した方や、大阪や京都の文学フリマを踏まえて関西方面から、という方なども多かった。

そうした方々だけでなく、みなさん、ちらほらおっしゃっていたのが、会場が広すぎてまわりきれない、ということだった。

せっかく交通費を出したのに、それはもったいない、と感じた。

出店者が一番、他の場所の出店を見たいはずなのだが。

店番の時間でそれができなかったり、というのはもったいないだろう。

だから、今回の記事が、まわりきれなかった部分の見学の一助になっていれば、と思う。実際、そういう反響もいただけたのだ。

 

 

実は記事制作をこのまま続けていいんか、という心持もある今日この頃でしたが。

こういうイベントはこれからもゆるく取材していきたいな。

記事も、やめない。ゆるくやっていこう。

 

さしあたり、しばらく文学フリマの取材は続けていきたいなあ。

印刷代がたまったら出店したい作品もあるのだけれども。

「理想が高い」状態なので、まだ、それは難しい。

けれども、「現実の目標」にしようかな、という気持ちにもなりつつある。

そういうやる気も、かなり、蓄えられた。

 

実は記事制作やそのあとさきのことで、購入させていただいたみなさんの作品を、まだ読めていないのだ。

読んだら所感を少しずつnoteに記していきたい。

しかし、また書いたり生活したりしながらの読書になるので、次の文フリまでに、少しずつって感じにはなるだろう。それでも読むのが楽しみだ。

 

ところで、ところどころターリー屋さんの画像を載せたのは、次に行った時に食べたいからだ。備忘録。記事に載りきらなかったのだ。

文学フリマは食べ物と飲み物のセンスがよすぎて、それだけでも価値があるのだ。

 

 

記事はこちら。 

人工言語」から「ドストエフスキーBL」まで!? 多彩な出店者揃い踏みの『第二十二回文学フリマ東京』でお話を伺ってきました!|ガジェット通信

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