読書馬鹿でありたい

文化庁の『平成 25 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』によると月に一冊も本を読まない人の割合は調査対象のうち47.5%だそうだ。
その『非読書人口』のうち本を今後も読みたいと思わない人は44.7%。

総務省統計局の統計で平成25年度の人口は127.298.000人。

平成25年度の時点で約6千万人の人が本を読まない。

更に約2千7百万人が今後も読まない非読書人層(?)にあたる。

読書をしない、これからもしない層について、これが若い人ならまだいい。
けれども同調査の結果で本を読まない層が多いのは七十代以上とある。非読書層の六割を占めている。

二十代と四十代の読書者人口は多い。若者の読書離れと言われるけれども、考えれば自然なことながら老年層の方が本を読まないということになる。


実際に老化が進むと読書自体が困難になる。自分も明らかに「初老」という言葉を実感している。年をとるほどに読書に対する体力も集中力も落ちる。

平成25年度の四十代の読書人口が多いのは単に人口の多さのせいだろうか。二十代の読書者の層はいっそ人口に対する割合が高いようにも思える。

 

年をとるほどに読書そのものが困難になるのは当たり前の話だ。この国では高齢化が進んでいる。5年前の古いデータだが、読書人口について公的な調査データが見つからなかった。数の話は例えにすぎない。


今、書籍にはライバルがたくさんある。昔、新聞のライバルはテレビと言われたが、新聞はテレビの風潮をうまく取り入れることで生き残った。同じように今の文芸はアニメやゲームや漫画を取り込んで生きようとしているようにも見える。
ウェブ上には活字も絵も映像もゲームも溢れている。VRやARという技術もある。活字や漫画の創作物が書籍に至るには審査が必要だが、ウェブには審査がない。

例えばNASAでは国家プロジェクトのスケジュールが何年も何十年ものスケールで組まれていてその大組織は変更が効かない。その間にも民間の大学や企業では最新技術が生まれて少数精鋭で資金繰りさえどうにかなれば前進する。その効能は場合によっては大きな宇宙開発局よりも早くあらわれる。つまりは開発局は鈍重だ…とは思わない。重さがなければ果たせないプロジェクトも採取できない正確な統計ももちろんたくさんある。だから開発局が不要ということはありえない。

NASAベンチャー宇宙航空企業の関係は現存する出版のしくみとweb作品の関係にどこか似ている。

 

近頃SNSで「新しい漫画の単行本が出版された時に最初の一週間の売り上げが大事だ」と言う話が出回っている。実際数字がなければ会社は成り立たないので、ある程度は事実なのだろう。けれど、その本の売れるまでにその本は需要のある人に需要のあるタイミングで届いているだろうか。例えばある書店が本を50部発注したのに届いたのが5部だった、ということもある。本が全て売れたとして、残りの45部は都市部や専門書店などへ届けられている。これが現状だ。

書店によっては発注したけれども発売日に一部も届かなかったということもある。一方で本の入りやすい書店は確かにあって、そこには在庫が山と積まれている。けれども書店には「色」がある。書店の色、つまり客層にあわない作品は手にとられずに返品に至る。発注した書店の規模が小さいとしてもそこにあれば売れたかもしれない。

そんなしくみが罷り通る一方で「最初の一週間で売れない」というだけの理由で切られる作品がどれだけあることだろう。

まるで宮沢賢治の「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」だ。かつてはそのしくみ、出版や流通のしくみに責任があると思っていた。

けれども、近頃は一読者の自分にも責任があるのではないかと感じる。

 

平成25年度の調書によれば月に一冊以上本を「読む」読書者の人口は52.5パーセント。読書をしない人でも、今後読書量を増やしたいと考える人は非読書者層のうち55.3パーセント。この数が多いか少ないかはわからない。

自分は読書をする側の人間だ。とにかく、読書をする側の人間の、そのうちの一人だ。自分が読書量を増やせば、つまりはその一冊に対する読者を一人増やせる。本の読者は、そのある一冊の読者であることについて自覚をするべきかもしれない。

例えば映画好きと言っても今はさまざまな形態で映画を観覧できる。そしてその映画のスタッフや役者、脚本家や監督に何より収入を授けるのは映画館の観覧客だ。それと同じように今後の書籍の読者は、発売直後に紙媒体の書籍で読むか電子書籍で読むかによって作者や出版社への貢献度に差が出てくる。 

 

もしもある本を読みたいと思った時に既にそれがそこになくなっている。そのために読者の資格を失っている場合、求めるのが遅すぎたという一端の責任が生じるのだろう。読者としての誇りを失わないよう、たった一人でも、その作者の読者であることを誇りにして、もっと王様みたいに求めていなければいけないのかもしれない。いや、愚者でいい。読者でありたいのなら必死でなければならない。


全体の半分の本を読む側の一人、絶対数としてそれは少なくない大多数即ち大衆のうちの一人かもしれない。作者にとって一人の読者であることを、自分が、自分こそがその作者の読者であることを作者に幸せと感じさせるような、そのような一人の読者であらねばならない。ということを、強く感じている。

 

泉谷しげるが「馬鹿にも知性が必要なんだ」という名言を随分昔に『クイズ・音楽は世界だ』という番組で発していた。多分「読者」に知性は必要ない。読書馬鹿でいいのだろう。

本が売れなくなっていく。地球上最後の一人の読者になってもファンでいます、と言えば聞こえがいい。けれど実際金輪際そうした状況は訪れない。

もし読者が地球に一人だったらもうその時点でその本は日の目をみることはないのだ。我が愛する本は聖書よりも仏典よりも広く知れ渡るように読んで拡散しなけれなければならない。読書をするならそれくらいの心意気であるべきなのだろう。

 

この記事は原題の『「読者」に知性は必要ない』から改題しています。