神の作品について語ったら授かり物を受けた。
思いがけないことがあるもので、本当にそれは軽い気持ちからはじまった。軽い気持ちといっても実は重い気持ちが詰まっている言葉で、ふわふわ雲に浮いているようなつぶやきをしてみたのだ。
おおきたせんせいの百合を語りたいから週末にツイキャスしたい
— こさめ@土曜東ア20b (@krkawwa) 2017年12月8日
「青野君に触りたいから死にたい」(椎名うみ/講談社)みたいな口調で。
実は今年に入ってから百合に関する放送をニコニコなどでやらせっていただいたことがあった。それがそれなりに楽しくて、一回でいいからひとりでやってみたくなったのだ。いつどこでなにをどうすると具体的な概要を示さない本当にふわっとしたプランをつぶやいてみた。
ツイキャスなら手軽にできるのだ。
年内にやり残したことのひとつとして「大北紘子先生作品のよさを訴える」があったが、やりそびれていたのだ。心残りであったのだ。
大北紘子(おおきたひろこ)先生こと大北真潤(おおきたまひろ)先生の新しい単行本「楽園の神娘―クロリス―」が2018年1月5日に発売されるという啓示を得て、ますます年内に布教をしなければ…と思いを新たにしたつもりでつぶやいたのだ。
語るなら今だ…そう意を決してつぶやいてみた。
そうしたら神に声が届いた。
聞きに行きたい~
— 大北真潤 (@ohkita_mahiro) 2017年12月8日
このときの私の心境として、まず真っ先に「大北紘子先生って実在するのか」(アカウントをフォローはしているが実在性の疑わしい神威に満ちている側の神なので絶対に五感では認識できないはず)「今私のツイートを神が認知した」(下賎のもののふわっとした声をなんか更にふわっとリアクションした)「恐らく私の余命はもういくばくもない」(こんな幸運がありえるのか、神よ私はどんなものでもささげます)ということが思考されたのだが、とにかく頭が真っ白になった。
なんというかつまり昇天した。さようなら、みなさん。さようならでございます、地球様。そんな具合に草野心平の蛙が地球にわかれをつげる詩のような現実との乖離に至った。至るだろう。至らざるをえないだろう、これは。
よしんば神がリアクションしたとして、私の配信を聞いてくださるなんて…って聞いてみたいって仰っているな、人間にわかる言語で…と何度も疑わしい気持ちでこの信心の不足しながらも神の望むままの子羊としてその後も放送内容について具体化していくつぶやきを行ってみた。
とにかくふわっとしたつぶやきから始まってそのようなことが起こりえるはずはない。しかし神は私が具体的なことをつぶやくとその都度反応を、御RTや御拡散などの神威を発揮され、つまりなんというかありがたいご対応をくださる。何がどうなっているのか。
僭越ながら大北紘子神のことを作品とともに紹介する。
2011年から『コミック百合姫』(一迅社)で鮮烈にしてヴィヴィッド、鮮やかなる(すべてが重複用語だが本当にそうなんだ)デビューを果たされ、そのシビアな世界観と対照的な華やかな画風で少女たちの時に残酷とも言える物語、すなわち百合漫画を数多く掲載。
2012年6月に「裸足のキメラ」が刊行。
2013年6月に「月と泥」、2014年7月に「Vespa」が刊行されている。
これらの三作品は私にとって百合の教科書、教本。
つまりまあ、神なわけ。キレ気味にそう言いたい。
どこらへんが神かというと、旧来のSとか百合というのは客観視して鑑賞した時に鑑賞に耐えうる美しい少女が美しい少女と制服や校則の制約のなかでどうやって羽化するのか、という瞬間とともにその情愛を描いた(以下略)、一言であらわせば幻想的なものとして表現されることが多かった。
一方で百合姫というのはそこにどこかシステマティックな葛藤を入れたり一筋縄でいかない設定をしつらえたりもしてくれて、どこか新しさがあった。
大北先生の百合は完全に新しかった。鮮烈って五万回あらわしたい。
「月と泥」の帯にはこう記されている。「男なんてみんな死んじゃえばいい」と。
これは要するに男性排除の意思があるように見えて、今見ても過激なコピーだと感じる。
ここまで男性を排除する一文が帯に踊る百合作品は後にも先にもないのではないか。
例えば男性に隠れて、とか、男性を避ける、という秘密の香りに満ちていたその「秘密」こそが百合だというのが旧来の雰囲気だったものを、こうまで明るく闊達に排除を宣言した帯はほかにない。
この一句は恐らく売るために極端に作風を言い表し凝縮した宣伝文句そのものだろうとわかるのだが、この一句のために大北神作品をミサンドリーと同一視するレビューを見たことがあった。
ミサンドリーとは普通の男性をも嫌悪したり悪者扱いすることだと思うが、大北神作品の少女たちは男性を憎しみはしてもその相手には憎むべき素質がある。ミサンドリーの作品などではないのだ。普遍的な男性を男性というだけで憎むことをミサンドリーというのだが、そのような無分別な視点はどこにも一切微塵もない。
恐らくは彼女たちが怒ったり嘆いたりしていてそれが男性に向かうものとして描かれているので、そのように表現されたのだろう。
しかし先述の通りに彼女たちの怒りは相手が悪辣残酷で人生を踏みにじられているために生じる正当なものだ。
あれがミサンドリーなら週刊少年ジャンプ連載尾田栄一郎著の「ONEPIECE」はもうすごいミサンドリーだといわざるをえない。
では彼女たちの怒りはどこから生じどこへ向かうのか。
それは複雑な社会への怒りであり、けして男性排除や自らの関係の禁断性からの抑圧などではない。中には恋情などかけらも微塵も互いに抱いていない関係性も描かれている。彼女たちは手をとりあって逃げたり蔑みあったり罵ったりもするのだが、その怒りはけして恋情から生じる悲しみではない。
女であることへの不本意、その不自由への怒りだ。
けれどもその不自由は男なんて死ねばいいというだけで言い尽くせるほど短慮な憎悪ではないように思われる。
男だけではない。
愛されなかった者が女であるというだけで愛されなかった時に感じる憎悪はただ「男が憎い」というだけではない。
社会慣習が憎い、男が憎い、ともすると、自分を愛さないあなたが憎い、となる。
この憎しみを百合とあらわさずとして何とする。尊いというほかに何か言葉があるか。
たったひとつを愛する余りにその愛が得られないあまりに一切を憎む、大北紘子神作品では、その露骨な台詞も描線も輝く石のような目の表現も尊い。
第一がこの素晴らしい絵の前に何か言うのも野暮だ。
恐らくはこの過激なコピーは「裸足のキメラ」収録「花々に似た蟲」の登場人物(凄く好きな人物です)の台詞「世界中の女たちは心の何処かで男はみんな消えちまえって思ってるわ…」をシンプルに整理しただけの惹句であったろう。
これはもしかしたらセパレイティスト、女性だけの世界を望む者の心境かもしれないが、「花々に似た蟲」を一読すれば、この台詞の憎しみの向かうところが男性といった世界の半分を占める生物だけに茫漠と向けられているだけではないのがわかる、はずだ。
紹介が長くなった。
とにかくそんな大北先生の作品をもう一度読みたいと思っていたところに新連載「楽園の神娘―クロリス―」が講談社「good! アフタヌーン」で開始されたというのだ。
ありがとう護国寺、ありがとう講談社。
「楽園の神娘―クロリス―」の主役は男女コンビだ。しかし登場する敵役の少女たちにすべてに花の名がついている。植物モチーフの女の子たちなわけで…つまりまあなんというか待ち焦がれていた大北紘子先生の女の子たちがたくさん出る漫画だった。そして画面がすごく冴えている。そこには抑えられていた何かが爆発していた。
つまり百合だけでは表現されきっていなかった社会的視点とか大人の視点、学生の世界ではありえない俯瞰の視点があった。そこで少女たちが暴れまわっている。
過去作品のことを少し語ってみようか、とつぶやいてみるのも当然だ。
しかしてそれが神が聞いてくださるという。
私の語りを。
まじか、としか言えない。
いや、神の作品の魅力を語ろうと言うのを神そのものが聞くというのは私としてはありがたい一方で「プレイ」としか思えない。羞恥プレイの意だ。いやもう羞恥の領域を超えて懺悔では? 何の懺悔かはわからないけれども!
神への萌え、すなわち祈りを述べるわけだからその祈りをご本体が聞き届けるのは自然なことなのかもしれない。プレイというのは祈りという意味もあることだし…。
どう考えても僭越至極すぎて私の身に余る光栄すぎて緊張する。
しかし、聞いてくださるというのだ。これはまじめにやらないわけにいかない。
いや、最初からまじめにやるつもりだったけれども。
訴えたかったこととして、大北先生の百合作品の作風は「反転百合」ではないかということだ。
対極の立場にある女と女の視点や身分がある日突然反転する。
それまでの過程とそれからを描く緊密な場面の連続。
それを勝手に反転百合とあらわしたい。
そのことについて共感を得たい。
その一心を語ってみたかった。
既に三冊刊行された作品の作風には「現代もの」と「それ以外」があり、「それ以外」はいわばファンタジーやSFのテイストを含んでおり、そちらには長編にもなりうる要素のあることを、つまり百合を超えたエンターテイメントであることを訴えたかった。
それぞれの作品のタイトルを記しておく。
【月と泥】
月と泥
六花にかくれて
好きの海の底
しあわせにしてほしい
丘上の約束
鎖の斬手
鎖の少女たち
【裸足のキメラ】
裸足のキメラ
名もなき草の花の野に
欠け落ちて盗めるこころ
裸足のキメラ
はんぶんこ
花々に似た蟲
愛と仕事と金の話をしよう
この花がしおれるころに
【Vespa】
play:1
play:2
play:3
インソムニアガール
7年9ヶ月前の甘味
18日前の黒色
15年と6ヶ月前の秘密
以上、タイトルだけで詩が感じられることが伝わるだろうか。
これらを「現代もの」「それ以外」に大別して語ることにした。
いずれこれらはnoteでも大別して少しずつ綴っていきたいのだが。
しかし配信にあたりこれほど緊張しかないものなのだろうか、ツイキャスとは。
本当に神は降臨するのだろうか、ご視聴くださるのだろうか…と信者あるまじき疑念を抱かないわけでもなかった。
神を信じて殉教する聖者って本当になんていうかすごいなとも思った。だって自分なんかもうほんとまじドキドキしすぎて真っ先に疑ってるもの、どっきりじゃないかって。
でもこのアカウント本物だもの、大北先生だもの。でも、あの。でも、え、まじで。
そんな独言状態に陥りながらも私はバッテリーを購入し先生の作品を再読し観点を改めた。いいんだ、神が聞いていようとも粗相をしてしまうかもしれない緊張に既に失禁していても私は大北先生の作品について語りたい。それだけの一心だ。
震えながらも予告した日時にツイキャスを始めた。実際ツイキャスを行うのが初めてだ。何度も言うが緊張しかない。
部屋でなく近所のカラオケボックスで行うことにした。だが予定していた店はもう満員で(それはそうだ12月だ)、時間が大幅に押したし、最初の二十分はミュート状態で声が配信されていなかった。そのことを視聴者に指摘していただけて救われるほどのビギナーだった。こんな配信を神が聞いてくれるわけがない。むしろこれ聞かれたくないなというポカ具合だ。
本当にご降臨があるのか…という心持ちに至る以前にまずツイキャス初心者として単純に恥ずかしさと緊張があり、もうどうしようもなく不安を抱えつつ語りをすすめていった。
ツイキャスという放送は配信中にリスナーの方からアイコンをプレゼントしていただける仕様がある。
12月10日の20時16分、それは起きた。
ある方からケーキのアイコンが飛んできた。
それが…つまり…
それが大北先生からのケーキだった。
絶句しそうになったが、ツイキャスの性質上沈黙してはいけない。
先生からケーキが飛んだ途端、天変地異かというほどに心臓が高鳴り動揺するとともにカラオケボックスのBGMが途切れスマートフォンは電源消耗を知らせるアラームを鳴らし、もう本当大変な事態に陥った。
もう本当…
『今死んでもいい』と心から感じたわけで…
なんとかそれを配信し終えた夜、帰宅して、準備のために放置していた洗濯物をコインランドリーに運び、飯を食い、大きめのスーパー銭湯へ向かう道中、その中央線沿線沿いの酒場のすっかり減った夜道でも、泣かずにやりすごしたのは実感がなかったためだ。
結果としては本当に私と同じ大北神ファン、いやもう大北患者と呼べる連綿としたファンが集い、話を聞いてくださった。
それだけでも幸福なものを、大北神が降臨してくださった。しかし、あまりに理解を超えるためによくわかっていなかった。
けれども、帰宅して改めて録画を編集しツイッターアカウントをひらいたとき、先生からDMがきているのに気付き、そこにとても丁重な御礼のお言葉、過去作品に関する言及、そして未公開の完成されたネーム作品のデータリンクが貼られているのを見た時、そしてそのデータをダウンロードして拝読しているうちにそこにある物語の一切とそのラストがあまりに嬉しくて感激して私は泣き崩れた。
大北作品を語る上でその魅力としてラストの反転という点がある。
私の賜ったその作品のラスト、そこには私が今まで見たことのない「大北紘子」のラストがあった。
何故、これを私は百合姫誌上で読んでいないんだろうとも感じた。なんという報いだ、とも思った。
あの配信にこのような宝で報いて下さるほどに私は大きなことはしていない。
けれどもDMのメッセージを受けて先生が神でなく人間として創作者としてファンの声を受け取って下さったことをようやく五感で認めて感激した。
その作品についてはまた改めて語るが、そのネームは「シェパーズパース」というタイトルでピクシブにも公開されている作品だ。
まるでタイムカプセルを開いたら本当は昔生まれたものなのに、真新しいメッセージを伴ってそこに存在していて、ものすごく新鮮なものとし眩しく映えた。
私の、いや、どんな人間でもそうだろうが、何かを「推す」とき。その「ファン」としての振る舞いは一種の現実から逸脱したいがための反動であるだろう。けれどもそれでもいいのだと思った。こんなありがたい宝物が賜る、その報いがあるなら。
こんなに遥かに頭上の天にある宝物であるはずなのに、今の自分に必要なものにしか見えない内容だった。不思議だ。あの大北先生の作品で確かにあの頃の大北先生の作品なのにまったく新しい。
狂おしいくらいの約束、いや誓いの物語だった。
私のほしい台詞がたくさん詰まっていて、どうしてわかるんだろう、という気がした。
好きというだけでなく共感を引きずり出されてそれはとても乱暴な力だけど不快でなくて心地いい。そういう作風、これが大北先生だ、と思い出して思い知った。
ここにあるその作品が嬉しくてならない。
私は不躾にも先生にこの作品の、あらすじについて語るお許しを頂いた。
次回配信ではその内容についてネタバレしない範囲でのあらすじと所感を述べさせていただくお許しをいただいた。
作品そのものの形成状況について、本当に本当に不躾ながら伺ってみたところ「いつか描くかも」とのことだった。
その「いつか」という三文字に私は夢をみてしまう。
しかし確かに新連載も応援したい。
なぜ大北先生は一人しかいないのか。
もはや患者になりそうだ、大北患者に。
ひとりだけで抱えておくには殺生だけれども、だからこそ嬉しくてだからこそ宝物で、もしかしたら「いつか」の到来なんかきてほしくない。独占したい。けれどそうなると誰ともわかちあえないわけで、殺生だ、先生…
そして、この殺生なところが間違いなくつまりはもうでもそういうところからもう本当にあの作品を築いている大北先生だと感じてしまった。
配信において「Vespa」「鎖の斬手」については語りたらないし、先生から頂いた「Vespa」に関する言及も語りたいし、第一が「裸足のキメラ」表題作についての語り漏れがあったので、もう一度私は場を設けようと思う。
Live History - krkawwa - TwitCasting
神様っているんだな。クリスマスも近いことだし。そういえば「楽園の神娘―クロリス―」連載開始前に書泉グランデで「Vespa」初版を入手できたことも奇跡だった。
ここにおける神様って、なんかもう大北先生や講談社や未だ「Vespa」初版を置いていて下さったりした書店のことでもあるけど、今言ったのは本当に神様という意味での神様だ。
実際のところ「語り」を記そうとするともっと時間がかかるものを短縮して語りきれてしまうのだが、いずれ配信した内容はnoteなどでまた改めて作品ごとに少しずつ綴っていこうと思う。「ゆりがたり」も続けようと思う。
大北先生を、心から敬愛している。 好きでいて、良かった。