百合が好き? 百合も好き? アンケート後の雑感

百合作品以外もいけるか、百合のみの作品でなければNGか。

誰かアンケートとってほしい、というようなツイートを見付けたので本当にそのようなアンケートをとってみた。

結果はごらんの通り。

 だいたい75パーセント近くは百合もOKだが残りの25パーセント近くは百合だけでなければだめとおっしゃる。この数字はなかなか馬鹿にできない。

全体の約1/4だ。

昨今百合の多様化が進むなかでは男性が登場する作品も珍しくない。

いや、そもそも純粋培養女性だけ登場する作品がかつては難しかったのだ。

けれども何度かの百合ブームが発生してだんだんと女子だけの仕掛けられた百合漫画が珍しくなくなってきた。中には別に百合を前提としていない作品であるにも関わらず、結果として百合漫画とみなされるようなことも起きてきた。

この仕掛け百合、結果百合という概念は『「やがて君になる」3巻×「ハッピーシュガーライフ」4巻発売記念! 担当編集による超「百合」対談!』でガンガンJOKER編集の佐々木克行氏が用いていた表現だ。

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そうした結果百合も併せて女性だらけの百合作品が増えてきたにも拘わらず、敢えて男性を投入する作品も目立つようになってきた。

 

一迅社コダマナオコ先生の「捏造トラップ」やtMnR先生の「たとえとどかぬ糸だとしても」もそうだ。

あくまでも女性をベースに置きながらよからぬ存在として男性を登場させるリアリティには共感を覚える。「捏造トラップ」の蛍や藤原にはあくまでも相手を困惑させる意図がある。そのためか藤原というキャラへのアンチファンが明確に一定数確認されている。

一方「たとえとどかぬ糸だとしても」には批判が集まらない。

ここにおいて邪魔だてする存在は主人公の「兄」という血縁で身内、そしてそこに悪意は見当たらないためだ。

 

しかし上記の25パセーントのファンにとって、このキャラには悪意があり、あのキャラには悪意がないから男がいてもいいということにはならないだろう。

それでも並みならぬ拒否反応が生じるのは前者ばかりだ。

捏造トラップという作品においては蛍という少女にも存分にその悪女たる資質が与えられている。何度も主人公の由真は傷付けられているのだが、それは蛍によって、である。

直接的に藤原がゆさぶりをかける場面は何度もあるが、彼ひとりが悪役ではない。

その旨について検証をする機会はまた設けたいが、個人としては「藤原ひとり」に恋愛上の責任が集中するという風潮そのものに疑問がある。

 

上記の25パーセントの人たちは恋愛を行う上での責任が、男性が登場してしまうと男性側に委譲されてしまうことを無意識的に承知なのではないだろうかと感じた。

その背景にあるのは、男性への嫌悪だとか、感情移入できないといった生易しい「気分」ではなかろう。

戦後50年を経ても未だに根付いているこの国のしくみ、家長制度が聳えている。

それこそが自分を何度も心理的な死に追い込んできたものでもある。

 

 

いつか誰かが捏造トラップを読んだ時に、「蛍って女の子はあんなに由真を泣かせて悪い女の子だなあ」と言えるようになるような、そんな世の中の到来を望む。

百合作品はいつまでも百合作品として隔離されねばならず、そのカテゴライズは本来「恋愛漫画」とだけすればいいはずのものなのだ。

だが、蛍の悪女のイメージはとにかくこのレズビアンにとっては好ましい。

あれこそあるべきレズビアンの姿なのだ。

純粋な女の子を泣かせ、悪意のある男と張り合い、純朴な男性は駒扱い。

極悪非道の最高の小悪魔。私にとっては蛍はそんな少女だ。

あれくらいの悪女でなければ女性同性愛者はやっていられない。

だからこそ、彼女の幼い頃の純真な姿は印象に残る。

 

話がそれた。そのようにして現実で男性のいる社会に生きることを身近に感じる自分は作品そのものは百合であっても、百合だけでなくても同質に感じる。

いや、差異はもちろん色々に覚えるしそれぞれのメリットもデメリットも述べればこの記事の主題とそれていくのだが。

架空の物語である以上はもちろん女子ばかりが出てくるものは楽観的パラダイスを見ているようで楽しいし没入できるし、男女ともに登場する作品はドラマとしての広がりがある。

どちらがどう、ということもないのだ。

 

だが、百合作品のみ支持する層は、昨今それに巡りあうのは先に述べたように男性をスパイスとして投入する作品もある以上、けして楽な読書をしているわけではなかろうと思う。だからこそ百合のみの作品は必ず一定数の支持を得られるのかもしれない。